【書評】献灯使(けんとうし) 著・多和田葉子

kenyoshi

献灯使(講談社) 著・多和田葉子

東日本大震災から、5年が経過しようとしている。
文学の世界では震災をどう受けとめ、その後の人々をどう映し出すのか、それぞれの作家が様々な視点で震災後の世界を描いてきた。その中で、圧倒的な存在感を放った傑作として多和田葉子の「献灯使」を挙げたい。

本作は、痛烈なディストピアでありながら、その未来像は、曖昧な輪郭をなぞるだけで、読者の想像力が付与されることで成立する寓話のような作品だ。
政治は民営化され、鎖国化し、外来語は使えない、インターネットも電化製品もない、放射能の影響で子供たちの寿命は喪われ、不自由な身体となり、服の着替えをすることもままならい。一方、老人は死ぬことができず、100歳を超えても働き続け、子供たちの介護を行っている・・・
もはや、放射能がもたらした文明滅亡後のディストピアとしか言いようのない世界だが、言語感覚に揺さぶりをかけることで、小説空間はまた違う姿となって立ち現れる。
その仕掛けとなるのが、言葉遊びとされる多和田葉子の言語感覚にある。
ジョギングは「駆け落ち」と名を変え、駆ければ血圧が落ちるからという意味で定着している。
ターミナルは「民なる」という混合語に変わり、インターネットがなくなった日を祝う祝日は「御婦裸淫の日」とオフラインの当て字が使われるなど、駄洒落を用いた言葉遊びが、随所に散りばめられ、笑いを誘い、ユーモアを利用した言葉の再構築が展開されているのだ。
しかし、そこから見えるのはこの不気味な世界の不穏さであり、笑って良いのかさえ判らないというのがこの小説の恐ろしさである。

結末は決して明るいものではないが、恐怖や惨憺とした読後感ではない、言語の魔法に包まれた不思議な煌めきに出会うことができる。この奇跡のような物語を震災後に生まれた現代文学の最高峰に位置する傑作と断言したい。

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